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日本トルコ友好史

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『MONSTER』に関する記事を書くにあたり、「日本とトルコの友好史」を調べた。その中で幾つか興味深いエピソードがあったので、紹介したい。

◇エルトゥールル号遭難事件

1890(明治23)年6月7日、1隻のトルコ軍艦が横浜港に着岸した。船の名はエルトゥールル号。時のオスマン帝国皇帝アブドゥル・ハミト2世が派遣した特使が乗っていた。目的はその3年前に日本の皇族が帝国を訪れた事に対する返礼と、修好条約の交渉をする為であった。一行は盛大な歓迎を受け、3ヶ月滞在した後9月14日に横浜を出航。帰国の途に就いた(この時条約は締結されず)。次なる寄港地は、神戸港であった。
9月16日、熊野灘を航海していたエルトゥールル号は、嵐に巻き込まれる。北上していた台風にぶつかったのだった。船は、夜になって大島(現在の和歌山県串本町)まで流された。そこは大きな岩礁が集まる、事故の絶えない海域。あえなく座礁し、大きなダメージを受けた船は沈没した。650人いた乗員は海に投げ出された。そのうちどうにか陸に辿り着いたのは、わずか69人。
当時の大島の人々は、傷ついた乗組員を見て大変驚いた。外国人を見るのは生まれて初めてであり、もちろん言葉は通じない。しかし窮状を察するや、必死の救助活動を行った。貧しい漁村、物資とてろくにない。しかし村人達は、なけなしの食料を提供した。寒さに震える乗組員の為に、ありったけの浴衣も用意した。人々の尽力により、69人は全員助かった。3日後に生存者は神戸へと移され、手厚い看護が行われた。この時治療に参加したのが日本赤十字社の医師、看護婦の計9人。日赤が外国人相手に行った、最初の救護活動であった。大島の村人は、百数十名で遭難者の捜索を実施。1週間かけて219人の遺体を引き上げ、丁重に葬った。見つからなかった362人は、今も海の底に眠っている。
生存者の処遇は、すぐに決定された。明治天皇の意向を受けた海軍が、戦艦「比叡」「金剛」の2隻でトルコまで送る事を決めたのである。10月5日に品川を出発し、神戸でピックアップ。翌年1月2日にイスタンブールに到着し、大歓迎を受けた。これがエルトゥールル号遭難事件の概要である。

◇山田寅次郎、奔走す

事件の後、日本国内では新聞社が義捐金を募り、犠牲者の遺族に送金する動きがあった。しかし、個人で募金を募る者もいた。山田寅次郎である。旧沼田藩(現在の群馬県沼田市)家老の息子として生まれた彼は、小学校卒業後に英語、仏語、独語を学び、16歳の時に茶道宗偏流家元・山田家の養子となった。事件発生時、山田は24歳。大きな衝撃を受けた彼は、新聞紙上や全国各地の演説会で、一大募金運動を展開。結果1年で5000円(現在の5000万~1億円)を集めるに至る。外務大臣青木周蔵のもとを訪れた山田は、寄付金を差し出してトルコへの寄贈を依頼。しかし、青木はこれを断った。山田の活動を高く評価した青木は、彼自身がトルコに届ける事を提案。両国の国交樹立の為に見聞を広めてくるよう、協力を要請した。山田はこれを快諾。そして1894(明治27)年、イスタンブールの土を踏んだ。皇帝ハミト2世に謁見した山田は、「トルコに残り日本の文化を教えて欲しい」と頼まれる。こうして彼は、士官学校で教鞭を執る事になった。その教え子の中には、ムスタファ・ケマルも含まれる。後にトルコ共和国初代大統領となり、「トルコ建国の父」と言われるケマル・アタチュルクである。山田のトルコ滞在期間は20年に渡ったが、その間に国交が樹立される事はなかった。しかし、両国の文化及び経済活動の交流に尽力した彼の功績は、非常に大きい。

◇舞い降りた翼

1985(昭和60)年3月12日。イランの首都テヘランを、イラク軍の空爆が襲った。5年前から始まったイラン-イラク戦争が長期化した結果、それまで平穏だったテヘランにも攻撃が加えられたのだった。現地に滞在していた日本人は約1000人。商社マンや技術者と、その家族達だった。国外に脱出しようと図るが、陸路には山賊が出るという情報が入った。妊婦や赤ん坊も多くいる中で、無理はできない。残された道は、空路しかなかった。可能な人間から、次々に出国していった。
3月17日、イラクのサダム・フセイン大統領が声明を発表。
「今から48時間後の3月19日20時30分以降、イランの領空を飛ぶ飛行機は、国籍・軍用機・民間機問わず、全て撃墜する」
空港に人々が殺到した。チケットの獲得は難しかった。当時残っていた日本人は300人。ドイツの航空会社のカウンターに並ぶと、こう言われた。「乗せるのはドイツ人が最優先。次にEC加盟のヨーロッパ人。残念ながら、日本人を乗せる席はありません」。どこの航空会社も、似たような状況だった。それでも、どうにか潜り込むほかなかった。テヘランに乗り入れている日本の航空会社は、当時なかったのである。外務省は日本航空(JAL)に特別救援機を要請。しかし、「時間的に行きはともかく、帰りの安全が保障されていない」事を理由に断られる。タイムリミットまで10時間を切った段階で、まだ215人の日本人が残されていた。絶望か、と思われた。

その時空港にトルコ航空の2機が降り立った。乗組員が日本人に声をかける。「皆さんを助けに来ました。この飛行機に乗って下さい」日本大使館の野村豊大使が、日頃から親交のあったトルコ大使館のビルセル大使に協力を依頼していたのだった。ビルセルは本国に連絡し、政府はトルコ航空から特別便を出す事を決定。そうしてやってきた2機だった。飛行機に乗り込む日本人達。ようやくこれで助かる。安堵の空気が流れた。だが、事はすんなりと運ばなかった。空港から離陸許可がおりなかったのである。野村がイラン外務省と掛け合い、許可を得たのはその1時間後。飛行機はようやく出発した。まず目指すのはトルコ領空だった。直線に飛ぶと戦闘機と間違われる為、2機はジグザグ飛行を強いられた。いつになったら、イランを抜けられるのか?長い時間、乗客は祈り続けた。やがて、機長のアナウンスが響いた。
"Welcome to Turkey !"
その瞬間、機内で歓声が爆発した。人々は涙を流して喜んだ。時計は、19時15分を示していた。タイムリミットまで、あと1時間15分だった。
日本政府とマスコミは、トルコの好意の理由がわからなかった。朝日新聞は、「日本が近年トルコへの経済援助を強化しているからではないか」と書いた。だが、撃墜される危険のある中、それだけの理由で飛行機を飛ばすだろうか?日本人を乗せた為に、危険な陸路から脱出したトルコ人も大勢いたというのに。元駐日トルコ大使、ウトカン氏はこう語った。
「エルトゥールル号の事故が起きた時、日本人には本当に助けてもらった。その時の恩をトルコ人は忘れていない。私も小学生の頃、歴史の教科書で学んだ。だから、当然の事をしたまで」

◇受け継がれていくもの

2002年6月18日、宮城スタジアム。日本とトルコはFIFAワールドカップ決勝トーナメント1回戦を戦った。和歌山県串本町の人達は、公民館に設置された大型テレビで観ていた。手には日本と、トルコの国旗。「どっちも頑張れ!」と叫んでいた。エルトゥールル号の事故現場である大島には、事件の翌年1891(明治24)年に村と県知事によって、墓碑が建てられた。1929(昭和4)年には、大阪日土貿易協会が追悼碑を建立。この協会の初代理事長は、山田寅次郎だった。62歳になっていた山田は、この時も資金集めに走り回った。昭和天皇も和歌山を行幸した際、この追悼碑を訪れた。そのニュースを聞いたケマル・アタチュルク大統領は、墓地の大改修とトルコ式弔魂碑の設立を決定。1937(昭和12)年に完成させた。 {最下部写真参照} 後にトルコ記念館も建てられ、現在も5年ごとに大規模な慰霊祭が行われている。
サッカーの試合は0-1でトルコが勝った。翌日、トルコの新聞には勝利が大々的に報じられた。しかし、日本の健闘を讃える記事にも、大きなスペースが割かれていたという。記事の見出しは 「泣くな、サムライ」 山田がハミル2世に献上した刀は、今も博物館に陳列されている。

この内容に興味をもたれた方は、追加記事も併せてお読みください。

トルコ弔魂碑日本対トルコ


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■コメント
探偵
- 2005/02/22 1:15
こんばんは。エルトゥールル号の救出のことが、その後のテヘランでのこのような救出劇になるということは、微笑ましいことです。それに比べて「ラコニア号事件(撃沈したラコニア号の救出に当たったUボートを連合国が爆撃し、それを期にその後Uボートによる救出作戦は禁止された。)」のような悲劇もあるのですから、人の恩というのも紙一重ですね。日本人の場合はこういった事例があるから「正直者は得をする。」という教訓を教育するのですかね?私は、正直者は得する世の中であって欲しいです。

★ラコニア号事件の事は、初めて知りました。少し調べてみましたが、痛ましい話ですね。おっしゃる通り、紙一重なのかもしれません。このトルコとの友好史は、21世紀になってから注目されてきているようです。歴史の教科書ではなく、道徳の教材に使われたりしています。
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