Entries

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)
 ※言及リンクを持つ記事からのみ、受け付けています。
http://gachapin99.blog48.fc2.com/tb.php/33-6f238fe3

-件のトラックバック

-件のコメント

コメントの投稿

投稿フォーム
投稿した内容は管理者にだけ閲覧出来ます

徹底的 箱根駅伝

あなたは人目のお客様です。

箱根駅伝の人気がすさまじい。1/2と3に放送された第82回大会の視聴率は往路が27.6%、復路が29.1%。2日間の平均は28.3%であり、これは歴代3位の数字だった。ちなみに、過去最高は2003年で往路29.3%、復路31.5%で平均30.4%。優勝校は駒澤大学である。{いずれも関東地区、ビデオリサーチ調べ}
この数字を、正月に行われたスポーツと比較してみよう。まず元旦に行われたニューイヤー駅伝(全日本実業団駅伝)は11.2%。同日の天皇杯決勝(浦和レッズ対清水エスパルス)は6.0%。1/2に行われたラクビー大学選手権準決勝2試合(関東学院対同志社、早稲田対法政)は、2.2%と3.5%。どれも比較にならない。箱根駅伝の圧勝である。また2005年スポーツ番組視聴率トップ50を見ると、上位4つは全てサッカー日本代表のW杯予選で占められている。それに続くのが箱根駅伝(復路)の29.9%。今や、箱根はスポーツ界で屈指の人気コンテンツとなっている。2006年は冬季トリノ五輪とサッカーW杯という大きなイベントを控えているが、やはり上位に食い込む事だろう。

中継している日本テレビにとっても、箱根は大きなイベントである。2日間に投入される機材は、カメラ84台、ヘリコプター3機、移動中継車3台、ロケ中継車13台、クレーン9台。中継ポイントは50ヶ所、アナウンサー20名を含め動員されるスタッフは約850名に上る。スタッフ達は大晦日も正月もなく、準備をしてレースに備える。日テレが昨年放送した巨人戦の最高視聴率は、4/3の対広島戦で16.8%(セ・リーグ最高)。また、かなり宣伝をしていた12月のサッカー世界クラブ選手権 トヨタカップ。その決勝戦(リバプール対サンパウロ)の視聴率は、14.6%。これらと比較しても、箱根駅伝がいかに人気のあるソフトかがわかる。力を入れるのは当然の事かもしれない。
{TV番組を録画して観る人が多い昨今、視聴率については疑問の声は少なくない。だが生中継の要望が強いスポーツでは、依然として重要な指標といえる}

■なぜ箱根は人気があるのか

1つにはレースの過酷さが上げられる。往復217.9kmを10人のランナーがたすきをつなぐ。まずこの距離が長い。1人平均20kmを超えている。ニューイヤー駅伝は半分の100kmを7人で走るから、平均14.2km。社会人より学生の方が厳しいのである。大学三大駅伝である出雲駅伝(6区:44km)、全日本大学駅伝(8区:106.8km)と比べても随分違う。
レースが厳しいと色々な事が起きる。一気に何人ものランナーを抜く快走もあれば、首位を独走していた走者にアクシデントが起こり、あっという間に順位を落としてしまう事も。そこに視聴者はドラマを見出すわけである。総合1位で往路も復路も1位、という完全優勝を果たす学校もある。しかし、そうすると「今年の箱根は何も起きなくてつまらなかった」といった声が聞かれる。
注目されるのは強い学校ばかりではない。例えば繰り上げスタート()。一生懸命走っても、次のランナーにたすきを手渡せない。時には、あと数百mの記録で間に合わない時がある。また、総合順位で10位内に入れば翌年の大会でシードされるが、9区・10区あたりでは10位前後のチームが激しく競う。このシード権争いも、見所の1つである。

※繰上げスタート
2区終了の戸塚中継所までは、交通事情の関係でトップが通過してから10分で未通過チームの選手をスタートさせる(これ以降の中継所は、トップ通過から20分後がリミット)。また往路終了時に10分以上差がついた学校は、復路スタート時はトップ通過10分後に一斉スタートとなる。繰り上げスタートとなったチームの総合順位は、見た目のタイム+繰上げ分の時間差を随時加算して算出される。 繰り上げになった学校が総合で10位以内に入る事は、ほとんどない。

上記した見所について、今年の大会は十分な要素を満たしていたと言える。
ざっと振り返ってみよう。

■2006年 第82回大会レビュー

大会前の優勝予想で挙げられたのは出雲大学駅伝を制した東海大。次いで箱根4連覇中の駒大、全日本大学駅伝1位の日大。更には日体大、順大あたり。

往路を制した順大 5区 今井(3年)
箱根駅伝(順大)まず往路で光ったのは、予選会からの出場である山梨学院大。12位でタスキを受けた2区のモグス(1年)が、12人抜きの快走。一気にチームを首位に引き上げた。しかし4区、5区で順位を落とし4位となった。5連覇を狙う駒大は、飛びぬけた速さはないものの安定した走り。1位と30秒差の2位で往路を終えた。優勝候補と目された東海大は、1区で杉本(1年)が15位と出遅れた。3区の佐藤(1年)が11人抜きで区間新記録を樹立し、4位まで順位を上げた。が、5区でエースの伊達(2年)が不調。8位に沈んだ。往路を制したのは順大。出だしは良くなかったが、4区の村上(4年)が区間賞を取り、6位で5区の今井(3年)へ。今井は昨年区間賞を取った実力を見せ、5人抜き。先頭でテープを切った。しかし16位の明大まで差が10分以内と、復路での混戦を予感させた。

亜大は初優勝 10区 岡田(3年)
箱根駅伝(亜大)翌日、順大は6、7区と首位で通過。5年ぶり11回目の優勝が見えたかに思われた。しかし、8区の 難波(4年)が大ブレーキ。16km過ぎにふくらはぎがけいれんし、蛇行を繰り返した。更に脱水症状を起こし、ふらふらになってタスキをつなぐのがやっとだった。記録は区間最下位。チームの順位は4位に落ちた。9区に入った時点で首位にいたのが駒大。だが、それを亜大が猛追。山下(3年)が区間賞の走りを見せ、トップに躍り出る。駒大に42秒差で10区につなぎ、アンカー勝負となった。初めて箱根を走る亜大・岡田(3年)と、4年連続出場の糟谷(4年)。十分に逆転可能なタイム差だった。しかし区間7位の岡田に対し、糟谷は17位。駒大は5位まで順位を落とし、一方の岡田は先頭でゴール。28回目の出場で、亜大が初優勝を遂げた。亜大は往路は6位で、往路・復路とも優勝のない総合制覇は1982年の順大以来、6度目。シード権の10位内は、3校の争いとなった。9位に日体大が入り、その1秒後に東洋大。そして城西大は10秒差で涙を呑んだ。


■亜大はなぜ勝てたのか

学年氏 名区間順位
14年 木許史博9位
24年 板倉克宣17位
33年 岡田晃6位
42年 菊池昌寿2位
52年 小澤信4位
64年 北条泰弘14位
74年 綿引一貴3位
82年 益田稔6位
93年 山下拓郎1位
103年 岡田直寛7位
大会前の記録を見ると、なぜ下馬評が低かったのかわかる。10月の出雲駅伝では8位、11月の全日本駅伝では11位。目立って良い成績ではない。5千m、1万mのチーム平均タイムを調べても、全体の下から数えた方が早い。スピードはあまりない。しかし、ハーフマラソンの平均は箱根20チームの中で5位。距離が長ければ、決して引けを取らない事を示している。各走者の区間順位は左記の通り。
この結果でポイントは2つある。まず2区と6区。それぞれ17位と14位という、低い数字である。だが、次の走者も一緒に崩れなかった事、往路・復路で1人ずつだった事で助かった。そして9区。唯一の区間賞が王者駒沢との勝負どころで出た、という事が良かった。亜大の勝因は、ピンチに崩れずチャンスをものにした勝負強さと言えるだろう。

大学陸上の一競技「駅伝」における関東ローカルの大会…それが本来の箱根駅伝である。しかし、今やすっかり1つのカテゴリーとして確立されている。それはアマチュア野球の1つである高校野球の全国大会(甲子園)が、多くのファンを持っている事に近い。次に、その歴史を振り返ってみよう。

■箱根駅伝の誕生

そもそも駅伝とは、徒競走を指すものではない。古代律令制において首都と地方の間の道路網に30里(約16km)毎に置かれた中継所のことを「駅」といい、ここに宿泊施設や人、馬を配置していた。これを駅制という。そして、駅馬とは別に各郡に5匹ずつ飼わせ、公用旅行の官人に使わせた。戦国時代以降は宿駅に備えて幕府・領主の公用に供し、江戸時代には民間の輸送にも従った。これを伝馬制という。この駅制+伝馬制が、駅伝競走のヒントになったとされている。

箱根駅伝のルーツは、1919(大正8)年にまでさかのぼる。もともとはある予選の為に設けられたレースだった。それはアメリカ大陸横断駅伝。サンフランシスコを出発し、アリゾナの砂漠を越え、ロッキー山脈を越えて、アメリカ中部農村地帯を抜け、ニューヨークへゴールする。その話の中心となっていたのが、金栗四三(かなぐりしぞう_29歳)。後に「日本マラソン界の父」と呼ばれた男である。彼は1912年に行われたストックホルム五輪のマラソンに出場。しかし途中棄権となり、国民の期待を大きく裏切っていた(金栗の名誉の為に言っておくと、レースは炎天下で行われ死者が出るほど過酷だった)。「オリンピックで戦える日本の長距離ランナーを数多く育てるためには、駅伝競走が最適」…それが金栗の持論だった。どうせやるならスケールの大きなものを。そこで出てきたのが、アメリカ大陸横断駅伝だった。その話を東京都内の大学・専門学校の代表を集めて話したところ、満場一致で賛成(彼らが米国の広さを理解していたのか甚だ疑問である)。ただしアメリカでレースを行うわけではなく、1チーム10人だけが走りぬく。その学校を決める予選レースを行う事になった。

コースについては複数の案があった。まず東京-水戸。しかし「コースが平坦すぎる」という理由で却下。次に東京-日光。しかし交通の便が非常に悪かったので断念。そして東京-箱根。東海道沿いにある為、交通は問題ない。そして山の存在が魅力的だった。滝廉太郎作曲で知られる『箱根八里』にあるように、「箱根の山は天下の険」である。厳しい道のり、大いに結構。ロッキー山脈やアリゾナ砂漠を越えるには、そのくらいの試練に耐えられなくてどうする。というわけで、東京-箱根に決定。開催時期が真冬になったのは「寒さに耐えないと精神力が鍛えられない」という理由からだった。ようするに気合と根性があれば、寒さは問題ではないのだ。

そして1920年に行われた第1回大会には東京高等師範(現:筑波大)、明治、早稲田、慶応義塾の4校が出場。当時のコースはほとんどが砂利道。特に箱根山中は採石したばかりのとがった石が敷かれ、選手たちを苦しめた。優勝したのは東京高等師範。しかし諸々の事情により、アメリカ大陸横断駅伝は実現されなかった。ただ箱根駅伝は続けられ、今日に至っている。

■強豪校の変遷(~1980年代)

記録を見て光るのは、まず戦前では日本大学。1935~39年に4連覇を達成している。続いて中央大学。1948~55年に優勝5回。この2校の争いがピークに達したのが、1956~65の10年間。日大が優勝3回、そして中大が6連覇を含む7回。他の学校に付け入る隙がなかった。ただし中大はこれ以降低迷期に入り、次に優勝するのは32年後の1996年。
60年代末に台頭してきたのが日本体育大。1969年に初優勝をすると、そのまま73年まで5連覇。75・76年を大東文化大が連覇するものの長くは続かず、優勝争いには順天堂大学が加わるようになったのが70年代末。日体大と順大にはそれぞれ岡野章澤木啓祐というカリスマ監督がいたのだが、80年代にハッキリと明暗が分かれる。81・83と優勝した日体大だったが岡野は部内の揉め事で監督の座を追われ、85年以降日体大は長距離担当の監督・コーチが不在という事態に陥ってしまった。学生主体で運営したものの、それ以降優勝には手が届いていない(現在は監督がいる)。一方の順大は86~89の4連覇を含む優勝6回。名門の地位を確立した。澤木は現在日本陸上競技連盟強化委員長を務めている。アテネ五輪の女子マラソンメンバーを発表した際、「なぜ高橋尚子を外したか」説明していたのは彼である。
数字でいうと、最多出場回数は中大の80回。優勝14回も最多である。2位は日大で出場77回、優勝12回。3位は早稲田で出場75回、優勝12回。早稲田は第1回から参加している名門だが、強い時と弱い時の差がはっきりしているのが特徴である。

■箱根を走った名ランナー

過去幾多の名ランナーを生み出している箱根駅伝だが、必ず名前を挙げられる選手が3人いる。1人は服部誠(東京農業大学)。彼は1974年の第50回大会に、2区のランナーとして参加。トップから1分53秒遅れの13位でタスキを受けた服部は前のランナーを次々と抜き去り、12人抜きを達成。チームを往路優勝に導いた。彼の快走はラジオを聴いていた全国の箱根ファンを驚かせ、「ごぼう抜き=服部」のイメージを定着させた。この12人抜きは長らくごぼう抜きの歴代最多記録となっていたが、2003年に中川拓郎(順大)によって破られた。中川の場合はトップから50秒遅れの19位でタスキを受け取り、15人を抜いて4位にまで順位を押し上げた。

2人目は大久保初男(大東文化大)。1974-77(50-53回大会)に参加。その全てが山登りである5区で、4年連続区間賞(うち区間新2回)という快挙を達成。大東大は伝統的に5区に強かった為に「山の大東」といわれていたが、それを象徴する存在となった。{日本テレビのHPでは「4年連続4区」となっているが、これは誤り。その事を指摘したのだが、直す気はないらしい}

最後に瀬古利彦(早稲田大)。三重・四日市工業高校時代2、3年時にインターハイで800、1500mに優勝。一浪後1976年に早大に入学(当時早大にはスポーツ推薦制度がなく、勉強をしていなかった彼は中大に進もうとしていた。が、早大OBに説得されて浪人した)。箱根には1977-80(53-56回)大会に出場、4年連続で2区を担当した。成績は11位-2位-区間新-区間新。彼の在学中は1度も優勝していない。
ただし、彼の名を知らしめたのは箱根ではなくマラソンである。3年,4年と連続出場した福岡国際マラソンを連覇。モスクワ五輪の期待の星として注目された。1980年にNHKが箱根の2区「だけ」をTV中継したのは、瀬古を映したかったからである。{その4ヶ月後に日本が五輪ボイコットを決めた時は、彼を含め多くのアスリートが悔し涙を流した。後に瀬古自身「最も力が充実していたのは、あの時だった」と語っている}

関東ローカルとして始まった大会は、当初から地域住民に愛された。そして1953(昭和28)年に始まったNHKのラジオ放送により、全国的にも知られるようになった。しかし、今のように優勝や出場にこだわる学校は少なかった。まず出場する為のランナー14人(走者10人と補欠4人)を揃えるのが大変だったのだ。各校とも長距離走者ばかりいるわけではない。中距離走者(800m、1500m、3000m)が箱根を走る事もしばしば。そして、長距離選手以外にとって箱根駅伝はそれほど魅力のあるものではなかった。わざわざ正月の寒い中、長い距離を走りたくなかったのである。箱根OB達の証言によると、そうした風潮は1980年代頭まで続いた。しかし、大きな変革が訪れる。

■TV中継の開始

1983年からテレビ東京が箱根駅伝の番組を放送を始めたのだが、全て録画とダイジェストだった。その後87年に日本テレビが(技術的に難しかった平塚中継所を除き)中継を開始。そして89年からは、全区間完全生中継となった。
当時人気のある大学スポーツといえばラグビーだった。正月に行われる大学選手権で明大、早大、日体大、大東大、同志社大などが活躍して注目を集めていた。しかし日テレが初めて中継した87年に復路の視聴率は20%を超え、あっさりとラグビーに勝ってしまった。92年から往路・復路共に視聴率20%を超えるようになった。そして93年以降は、平均視聴率が25%を下回った事はない。この人気に目をつけたのが、大学関係者である。
延べ14時間に及ぶ中継で自分の学校が映れば、それだけでいい宣伝になる。1月は入試願書を受け付ける時期。ここで目立っておけば、受験者も増える。…そう考えた学校が、駅伝の強化に乗り出した。TV中継開始以降に箱根に初出場した大学は7つに上る。山梨学院大、中央学院大、関東学院大、帝京大、平成国際大、国学院大、城西大。どの学校にも共通する特徴は、ユニフォームの学校名が漢字で書かれている事。理由は視聴者にアピールする為。伝統校は学校名のアルファベットを使っている(例えば日大ならN、中央大ならC)が、それだと目立たない。そうした各大学の取り組みは、箱根を大きく変えた。これまで82回の大会で、優勝校は14校のみ。そのうち4校が90年代以降に初優勝をしている。上述した亜大以外の3校を紹介していこう。

■新たな力

山梨学院大学 優勝:1992,1994,1995
陸上部の創部が1985年。監督は上田誠仁(順大卒)。箱根駅伝に出場したのが87年、日テレの中継が始まったのと同じ時だった。山学大の特筆すべき事は、初めてケニア人留学生を箱根で走らせた事。88年に登場したオツオリとイセナは他チームの脅威となり、92年には初優勝。強力なランナーと適切な指導があれば、歴史の浅い学校でも勝てる事を証明した。山学大の活躍が、他の大学の強化に拍車をかけたといえる。留学生の起用については否定的な意見もあったが、競技レベルの向上に貢献したのは事実である。代表的なランナーは、以下の3人。

   ジョセフ・オツオリ  出場年 1989-1992(65-68回大会)
     1年:2区-区間賞 2年:2区-区間賞 3年:2区-区間賞 4年:2区-2位
   ステファン・マヤカ  出場年 1993-1996(69-72回大会)
     1年:2区-区間賞 2年:2区-区間賞 3年:2区-2位 4年:2区-3位
   中村祐二  出場年 1994-1997(70-73回大会)
     1年:3区-区間賞 2年:1区-区間賞 3年:4区-棄権 4年:2区-区間賞

中村祐二を記憶している方も多いはずだ。熊本・球磨農業高校を卒業後、福岡の実業団・新日鉄化学に4年間所属。田舎に帰り農業を継ごうと考えていたところを上田監督に誘われ、山学大へ。「実業団にいた選手を大学のレースで使うのはどうか」という声も聞かれたが、23歳の新入生の意気込みは違った。箱根で2年連続区間賞を獲得。2年の時に琵琶湖毎日マラソンに出場し、マラソン初挑戦ながら優勝。同年世界選手権に出場し、12位となった。
しかし人々に最も印象を与えたのは、1996年の箱根である。4区を任された中村は、スタートしてすぐ動きがおかしくなった。右アキレス腱を痛めたのである。立ち止まりながらも歩く中村。監督の制止を断り、彼は前に進んだ。しかし、とうとう12kmでリタイア。後に中村が大会前に負傷していた事がわかり、すぐに止めなかった監督が社会的な非難を浴びた。

当時山学大と共に2強と呼ばれたのが、古豪・早大である(新興校ではないが、思い入れがあるので紹介させていただく)。武井隆次、櫛部静二、花田勝彦、小林正幹、渡辺康幸、小林雅幸という大学トップクラスの選手が揃い、優勝争いを展開した。記録を見ると特にこの3人が素晴らしい。
    武井隆次  出場年 1991-1994(67-70回大会)
      1年:1区-区間新 2年:1区-区間新 3年:7区-区間新 4年:7区-区間賞
    渡辺康幸  出場年 1993-1996(69-72回大会)
      1年:2区-2位 2年:1区-区間新 3年:2区-区間新 4年:2区-区間賞
    小林雅幸  出場年 1994-1997(70-73回大会)
      1年:3区-4位 2年:4区-区間賞 3年:5区-区間賞 4年:7区:区間賞

神奈川大学 優勝:1997,1998
監督は大後栄治(日体大卒)。地元という事もあり、箱根に出場したのは古い。しかし1974年を最後に出場できなくなった。強化に乗り出したのは1987年、日テレの中継が始まった年である。選手を集めたり、寮を作って生活指導するなど、一からの取り組みだった。優秀な高校の選手を取れるような状況ではなかったので、地元に目を配るよう心がけた。そして試行錯誤した10年目に初優勝、翌年連覇を果たした。
神大の強みは、抜群の安定性にあった。練習で主に取り組んだのは20km走。箱根の平均的な距離を走る力を養った。区間新を出せるようなランナーは、ほとんどいない。だが区間5位以内を走れる選手は育ち、その層も厚かった。トラックで良い成績を残す選手がいなかった為に「神大は20kmしか走れない」と揶揄されもした。しかし、箱根で大事なのはまさにその距離を走りきる事だった。

駒澤大学 優勝:2000,2002~2005
最後に登場するのは駒大。この10年間で優勝5回、準優勝2回を誇る平成の名門である。駒大が躍進した理由は、監督の大八木弘明の存在が大きい。彼の経歴は異色だ。福島・会津工時代に目立った成績を残せなかった彼は、実業団の小森印刷に就職。4年を過ごした後、「箱根を走りたい」と考えた。川崎市職員となり、駒大の夜間部に入学。昼間は働き、夜は授業と陸上部の練習という、ハードな生活を送った。やがて練習メニューを組む事を任されるなど、プレイングマネージャー的な役割を担う。卒業後はヤクルトに就職し、選手・コーチとして過ごす。そしてコーチとして駒大に戻ってきたのが1995年だった。

箱根には常識とされる事柄が幾つかある。例えば、「1区は一斉スタートだから駆け引きが重要。経験の浅い1年に任せるべきではない」「『花の2区』にはエースを投入するのが当たり前」「3年生の時に○区をうまく走れたら、4年でも同じところを走らせる」など。しかし、大八木はあまり気にしていない。「2区よりも4区の方が大事」というし、選手の走る区間は年度によって変える事が多い。こだわっているのは復路で、「復路を制する者は箱根を制する」という哲学を持っている。総合優勝5回という数字は、そのまま復路優勝にも当てはまる。その姿勢は、80年代に黄金時代を築いた「復路の順大」につながるものと言えるだろう。

記録を見ると、駒大は総合力に優れた学校という事がわかる。飛び抜けて優れた力はないが、様々な要素が高レベルでまとまっている。選手層が厚く、4年間出場した選手は少ない。その中で目立った成績を挙げているのも以下の3人くらい。

    藤田敦史  出場年 1996-1999(76-79回大会)
      1年:1区-2位 2年:2区-7位 3年:2区-2位 4年:4区-区間新
    田中宏樹  出場年 2002-2005(78-81回大会)
      1年:5区-4位 2年:5区-2位 3年:4区-1位 4年:4区-1位
    糟谷悟  出場年 2003-2006(79-82回大会)
      1年:7区-2位 2年:10区-1位 3年:7区-1位 4年:10区-17位

藤田敦史については、箱根よりマラソンが有名である。大学卒業後富士通に入社した藤田は、1999年にスペイン・セビリアで行われた世界陸上男子マラソンに参加、結果は6位。翌年には福岡国際マラソンに出場。2時間6分51秒の日本最高記録(当時)で優勝し、日本のエースとしての活躍を期待された。しかしその後は怪我に悩まされ、特に目立った成績は残せていない。

以上記した学校は、今も強豪というわけではない。山学大は10年以上優勝から遠ざかっているし、神大は連覇後の成績の落ち込みが激しい。唯一駒大に安定感は見られるものの、来年以降も優勝できるという保証はない。なぜなら、箱根に勝つ事は年々難しくなっているからだ。

■戦国時代の到来

過去10年のデータを記した以下の表を見てもらいたい。まず総合記録について。現在の距離(217.9km)での最高記録は、2000年に駒大が記録した11時間3分17秒となっている。この時の区間順位を見ると、3-2-1-8-4-2-1-7-1-1。駒沢らしく、復路の成績の方が良い。9、10区で区間新も出ている。往路でうまくレースを運べば、これよりもう少し記録は伸びるかもしれない。{ちなみに、箱根の歴史で唯一11時間を突破したのは、1994年の山学大。その時の記録は10時間59分13秒で、区間順位は2-1-1-2-1-2-2-3-2-1、区間新が1つ。ほぼ完璧といえる内容だった。}
優勝校総合記録1~10位1~最下位
1997神奈川11:14:0224:3643:53
1998神奈川11:01:4320:1537:09
1999順天堂11:07:4722:0032:58
2000駒澤11:03:1720:1037:28
2001順天堂11:14:0515:4331:50
2002駒澤11:05:3517:0528:44
2003駒澤11:03:4713:4630:25
2004駒澤11:07:5113:5734:24
2005駒澤11:03:4811:0131:20
2006亜細亜11:09:266:3423:36

しかし、総合記録はもう限界まできているのかもしれない。というのも、各校の戦力が均衡してきているからだ。1~10位までのタイム差を見ると、概ね減少傾向にある。2006年にはとうとう10分を切ってしまった。これだけタイム差が少ない状況だと、5、6位にいるチームで1人がブレーキを起こした場合、簡単にシード圏外へと落ちてしまう。1~最下位のタイム差も同様である。やや短くなった程度で、あまり変化は感じられないかもしれない。しかし実は2002年まで参加校は14校であり、03年以降は19校に増えている(関東学連選抜や、記念大会の時のチーム増は除く)。それでもタイム差が変わらないという事は、全体のレベルが底上げされているのだ。

また、前述した駒大の大八木をはじめ、実業団で指導経験を持つ人間がコーチになる事が増えた。大崎栄(旭化成→日立製作所→東海大)、小川聡(横浜銀行→日大)、岡田正浩(ニコニコドー→亜大)、川島伸次(旭化成→東洋大)、喜多秀喜(神戸製鋼→帝京大)、平塚潤(ヱスビー食品→城西大)など。従来の監督は大学の教職員であり、授業や選手勧誘、教授会と掛け持ちで陸上の指導をしていた。しかし、そういった姿勢で箱根を勝つ事はできない時代になった。学生の事を選手として扱うようになった学校も多い。こうしたプロの指導について「アマチュアスポーツとしていかがなものか」という声も聞かれるが、そのおかげで競技レベルが向上してきたのは事実。また陸上に取り組む企業が減る中、指導者の就職先が確保される事を喜ぶ見方もある。

このように各大学が強化に取り組む中で4連覇した駒大はすごい。今年は4位に終わり、来年は王座奪還を目指しているだろう。しかし再び優勝する事は、容易ではないはずだ。優勝候補に挙げられる5、6校に大きな力の差はない。亜大のようなダークホースにも勝てるチャンスがある。箱根駅伝は今、戦国時代の真っ只中にある。

■箱根駅伝と高校生

箱根で勝つ為には優秀な戦力が必要。各大学は高校生に目を向ける。「1人でも良い選手を推薦入学させたい」と考えるのは、自然な事だろう。超高校級の選手となれば、争奪戦は必至。それはプロ野球のドラフトのように、大学及び選手にとって重要な事である。例えば、2005年の新入生では以下の3名。

 山梨学院大 メクボ・J・モグス 出身高:山梨学院大付(山梨)
   高校時代の全国順位  5000m:3位  10000m:3位
   関東学連記録会  5000m:2位  1万m:2位
   箱根駅伝 2区を走行。13位でタスキを受け取った後、12人抜きの快走。区間賞を獲得。

 順天堂大学 佐藤秀和 出身高:仙台育英(宮城) 
   高校時代の全国順位  5000m:2位  10000m:5位
   関東学連記録会 5000m:4位 1万m:5位。
   箱根駅伝 1区を走ったが、トップから46秒差の区間11位に終わった。

 東海大 佐藤悠基 出身高校:佐久長聖(長野)
   高校時代の全国順位  5000m-4位  10000m-4位
   関東学連記録会 5000m:3位 1万m:3位。
   箱根駅伝 3区を走行。11年ぶりに37秒縮める区間新記録。

付属高にいたモグスは例外として、他の2人の進路は興味深い。佐藤秀和が選んだのは名門・順大。そして佐藤悠基は箱根で優勝経験のない東海大に進んだった。この選択は重要である。層が厚いところでは出場できないかもしれないし、弱いところだと出場できてもシード落ちする可能性がある。結果として3人とも箱根を走り、モグスと佐藤悠基は前評判通りの成績を残した。もっとも、毎年良い結果を出せるとは限らない。2004年では大物ルーキーとして伊達秀晃(福岡・大牟田→東海大)、上野裕一郎(長野・佐久長聖→中大)、北村聡(兵庫・西脇工→日体大)が注目された。3人とも2年連続で箱根を走っている。しかしその成績は、特別素晴らしいわけではない。ドラフト1位といっても簡単には活躍できないし、2年目のジンクスがあっても不思議ではない。箱根駅伝はそれほど甘くはないのだ。

話を推薦に戻そう。大学から声がかかる目安は、5000m走で高校トップ100に入る事。数字でいうと、15分を切る必要がある。高校生達はこの数字を切る為に練習を積むわけである。しかし箱根駅伝重視の風潮が高まる中、この推薦をめぐって問題が起きている。

例えば推薦枠が長距離走者に偏りがちな事。駒大は10人全て、東洋大は18人中14人がそうである。駅伝の事を考えると、仕方ないのかもしれない。だが陸上部は英語でいうとTrack & Feild。短距離もあれば障害もあり、投てき(槍投げ、砲丸投げ)、跳躍(幅跳び、高跳び)も含めて陸上部である。しかし強化方針が長距離に偏った事で、優秀な選手が育ちにくくなった(※全ての学校がそうではない)。また高校生の中距離ランナーの中には、箱根を走りたいが為に長距離に転向する者が多く、「短距離と長距離の間で空洞化が起きている」という指摘もある。

◆育たない中距離走者
ここで、1人の中距離ランナーを紹介しよう。名前を石井隆士。1972年、当時神奈川県・秦野高1年だった石井は、インターハイ1500mで優勝。その後日体大に進学した石井は、75-77年(51-53回)の3回、箱根駅伝に出場。成績は1区-8位、10区-5位、1区-区間新。
ただ、彼の本質はやはり1500mにあった。76年6月30日にノルウェー・オスロで行われた国際競技会に参加し、3:38:40で優勝(日本学生最高記録)。そして卒業後日体大教員となった彼は、77年9月3日ドイツ・デュッセルドルフで開催されたW杯に参加。3:38:24の日本新記録を達成。そしてこの記録を破る者が長い間現れず、「最古の日本記録」と呼ばれる事になる。
ようやく破ったのは、実業団NTNに所属する小林史和(当時26)。2004年7月31日、ベルギー・フーズデンで行われたナイト・オブ・アスレティックで3:37:42を記録。石井の持つ記録を、実に27年ぶりに0.82秒縮めたのだった。49歳になった石井(現:日体大助教授)は、そのニュースを聞いて「やっと破ってくれたか」と笑った。00年に日本陸連の中距離部長となっていた石井は、1日でも早く記録を塗り替えられる事を願っていたのである。

しかし、世界と比較するとこの記録はかなり遅い。現在の世界記録は1998年7月14日にヒッチャム・エルゲルージ(モロッコ)が記録した3:26:0。04年のアテネ五輪の参加標準記録B-3:38:00を突破できる日本人選手は1人もおらず、この種目への出場者はゼロだった()。無理もない、日本の1500mは27年間進歩がなかったのだから。
その事を、石井はもちろん承知している。「駅伝、マラソン志向が強過ぎ、中距離に留まっていれば成功できる素材までが長距離に流れてしまっている」「スピードがないから長距離に、ではなくスピードをつけて長い距離に移行する発想に切り替えないと、マラソンでも勝負できなくなる」と語っている。名門日体大の人間として、箱根駅伝の重要性はわかっている。自身も学生時代に走り、1999年(76回大会)では監督として臨んでもいる(結果は11位)。だが中距離走者を育てる立場として、現状を苦々しく思っているに違いない。

※解説
 ・標準A以上を記録した選手が複数いた場合→3人まで出場可能
 ・標準Aを記録した選手がおらず、標準Bの選手が複数いた場合→出場できるのは1人のみ
 ・標準A、B共に記録していない→参加不可
   詳しくは標準記録の一覧日本陸連の選考基準を参照。

◆広がる地域格差
箱根人気が過熱すると共に、優秀な高校生ランナーが関東の大学に集中する事で、他の地域とのレベル差が極端に広がったという問題もある。それは全日本駅伝の成績を見れば明らかである。大学日本一を決めるこの大会で、関東以外の大学が優勝したのは1986年(日テレが箱根の中継を開始する前年)の京都産業大学が最後。しかも「箱根の前哨戦」という位置付けの為に、ベストメンバーを送らない関東の大学が少なくない。それでも、他の地域の大学では勝てないのだ。
こういった事以外にも、箱根駅伝には様々な問題がある。最後に、そういった事例を幾つか紹介しよう。

■箱根駅伝が抱える問題

◆増えた途中棄権者
1994年の第70回大会まで、レース中に棄権したのは3件しかなかった。だが、翌95~02年の8年間に5件も起きている。中村祐二(山学大)について上述したように、原因は故障や体調不良である。走る前から調子が悪い場合もあれば、走行中に突然発生する事もある。しかしどのケースでも、選手はすぐにレースをやめようとしない。足をひきずり、フラフラになりながら前へ進む。監督が選手に触れれば、その時点で棄権が決まる。ただ、すぐにはそうしないで様子を見る事も多い。選手も監督も、1年かけて準備してきたレースを終わらせたくないのである。だが、選手の事を考えれば止めるべきである事は、言うまでもない。しかし、なぜ棄権が増えたのか。

大会を主催する関東学生陸上競技連盟や日本陸連関係者は、脱水症状が原因と考えた。箱根駅伝には給水がなかったのだ。国内の駅伝競走は日本陸連の「駅伝競走規準」に基づいて行われているが、給水は禁止されている「助力行為」として認められていなかった。その資料を実際に確認したわけではないのだが、時代錯誤の基準と言っていいだろう。思えば、1990年代まで運動中に水を飲む事が禁じられていた国である。駅伝競走規準が作られた頃には、全く考えなかったとしても不思議ではない。
そして箱根では97年の第73回大会から給水は可能になり、現在は走路管理員が10km以降に1回に限り給水して良い事になっている。管理員の学生が選手と併走して、飲み物を渡すのである。が、これにも疑念を抱く。箱根駅伝に最も近い距離といえば、ハーフマラソン。幾つかの大会要項を調べたのだが、最低でも2ヶ所は給水ポイントがある。1ヶ所では少なすぎるのではないだろうか。また、手渡しをする理由がわからない。給水ポイントにボトルを並べて、選手が勝手に取ればいい話である。いつ水分を摂るのか考える事は大切な事だし、「混戦の時はどうやってボトルを取るか」という事もマラソンでは重要なテクニックの1つ。それを練習する良い機会だと思うのだが。棄権が増えた理由として「レースの高速化に選手たちの基礎体力が追いつかない」と指摘する声もある。大きなプレッシャーがかかる中で走る事も、選手に負担となっているのだろう。個人的に今年8区で大ブレーキを起こした難波祐樹(順大4年)が心配である。3年の時から主将を務める彼は、昨年も同じような状況に陥っている。箱根に4年連続出場しているものの、区間順位は14-12-10-20と振るわず、優勝もない。彼はこの先、箱根を思い出す度に苦しい思いをするのではないか。

◆「試走は禁止」の嘘
箱根駅伝では、レース前にコースを走る事が禁じられている。どうやら以前交通事故に遭って亡くなった選手がいたかららしい。だが、この決まりをどの学校も守っていない。選手の適性を見る為にも、試走は不可欠なのである。だが表向き禁止されているので、夜中に走る。時期は11月頃。最初から走る区間の決まっている選手は別として、適性を見る為に数区間走る選手も多い。この事はマスコミも知っていて、試走の内容をチェックしている(報道はしない)。しかし、夜の箱根といえば走るのはランナーだけではない。峠を攻める走り屋達である。試走をしながら、猛スピードで突っ込んでくる車に轢かれそうになる場合もある。また、選手をサポートする他の部員達も、コース上の目印を確認する為にあちこち動き回っている。その為、警察官から職務質問をされる事も少なくない。実にバカバカしい話ではないか。主催者は公式練習日を設けて走らせるべきだろう。交通整理を考えると難しいのかもしれないが、新たに事故が起きた時は誰か責任を取って済む話ではない。

◆コース設定への疑問
2006年に箱根駅伝ではコース変更がなされた。21.0kmあった4区を2.5km縮めて18.5kmに、その分を5区に回し、20.9kmから23.4kmに伸びた。理由として「最短になった4区でトラック専門の中長距離選手にも出場機会を広げ、最長の5区で世界と戦えるマラソン選手の育成強化を図る」という事らしい。効果のほどは、何年か経ってみないとわからない。ただ、現時点で私は疑問に思っている。

4区を走った選手を昨年と今年で比較してみると、今年の方が3000m障害を走った選手が多い。だがロードを走る選手が多く、トラック専門は見当たらない。確かに18.5kmは短くなっているが、それは箱根の別区間と比較しての話。本当に中距離選手の事を考えるならば、5kmもしくは10kmの区間を設けるべきだろう。
5区を長くした事は、更に謎である。もともとタイム差が付きやすい区間が延びた事で、重要性は増した。今大会の今井(順大3年)のように、山登りのスペシャリストがいるか否かで戦略は随分と変わってくる。観ている方は面白いかもしれない。しかし、これがマラソン強化につながるのだろうか。世界のマラソンレースは、2つに大別する事ができる。1つはコースが平坦で記録がでやすい高速レース。もう1つは世界選手権やマラソンなど、暑い時期に行うサバイバルレースである。一方箱根の5区は気温がマイナスになる中、標高差864mを20km余りで駆け上る。世界のどこにそんなマラソンコースがあるというのか。「坂を上る事で鍛えられる」というのなら、起伏に富んだクロスカントリーをやった方が強化につながるのではないか。実際にクロカンで成績が伸びた国もあるのだ。
こんな事は関係者もわかっているだろう。しかし、決して改善案は出されない。読売新聞、報知新聞、日本テレビなどマスコミが許すはずがない。選手が長くて過酷なレースを走るからこそ、箱根駅伝は人気があるのだ。炎天下でプレーするからこそ、高校野球に人気がある。あれが空調の効いた大阪ドームで行われたら、ファンは減るはずだ。箱根も同様である。

◆燃え尽きる選手達
かつて男子マラソンには人気があった。1984年のロサンゼルス五輪、88年ソウル五輪、96年アトランタ五輪におけるレースの視聴率は良かった。瀬古利彦、中山竹通、谷口浩美といった人気ランナーがいた。長距離走者はマラソンを走り、五輪を目指した。しかし時は流れ、今日本で最も人気のある男子陸上競技は箱根駅伝となっている。箱根で走る事が選手の目標であり、それを達成した後は満足して陸上を辞めてしまう。いわゆる燃え尽き症候群(バーンアウト)になる選手が後を絶たない。「そんな事はない。今までに多くの箱根経験者が、卒業後五輪や世界選手権代表に選ばれている」という指摘もあるだろう。確かにその通りである。何しろ昔は400mや800mの五輪選手を輩出しているくらいだ。しかし、それは長い歴史を見た上での話。1990年代以降では事情が変わってくる。

箱根経験者の中から五輪の陸上競技に選ばれた人数を調べてみると、92バルセロナ(4)、96アトランタ(5)、2000シドニー(3)、04アテネ(2)と減少傾向にある。05年の世界陸上マラソンでは、5人中1人しかいない。他の4人は関東以外の大学か、高校から実業団に入った選手達である。高校時代のエリートが揃っているはずの箱根経験者から、なぜマラソン代表が育たないのか?その理由は、まさに「箱根を走っていた」事にある。
近年マラソンで好成績を上げる選手には「5000m、1万mを走り、その後マラソンに転向する」というパターンが(男女問わず)多く見られる。だが箱根を目指す選手達は、20km前後という箱根独特の距離を走る練習をしている。必然的にトラック練習が不足するのだ。また駅伝とマラソンは共に行われる時期が重なる為、両方出る事はできない。現在日本マラソンの最高記録(2時間6分16秒)を持っているのは、高岡寿成。彼は京都・洛南高→龍谷大→カネボウという経歴を歩み、箱根とは無縁の競技生活を送っている。またマラソンの他に3000、5000、1万mの日本記録も持っている。経歴を見ると、決して日の当たる場所を歩んできたわけではない高岡。だが、才能に溢れているはずの箱根のランナー達は、彼の記録には届かない。世界を見据えた選手強化を考えると、箱根駅伝に問題があるのは確かだろう。

***********************
今回多くの資料を読んで感じたが、箱根駅伝の人気は今ピークを迎えていると感じる。それだけに、今後を見据えて課題に取り組んでいくべきではないだろうか。大学ラグビーやプロ野球がそうであったように、1度人気が落ちたものを再び盛り上げるのは難しい。願わくば、健全な発展をしていって欲しいものだ。
この記事を読んだ方は、クリックお願いします→ブログランキング バナー


■コメント
chiakiichi - 2006/01/20 22:54
実は高校時代、陸上部・・・のマネージャーをやってまして(^^ゞ。顧問の先生が石井隆士先生と言いまして、1500Mの日本記録を持っておられる方でした。現在も破られていないようです。そんな部でしたから、なかなか強い選手がそろってましたよ。在学中に、母校の日体大の監督になれらて今、助教授になられているようで驚きました。この記事をきっかけに検索して調べてみました。なつかしかったです。先生自身も箱根駅伝も走られてるようです。 父が箱根駅伝を見るのが好きでして、今年もTVはつきっぱなしでした。地元が神奈川なので平塚中継所がわりと近く、応援にでたこともあります。箱根路の距離が伸びたことには疑問を確かに感じますし、元々寒いところを最も寒い時期に走らせるって・・・とも思いますが、箱根への思い入れが陸上をやっている方は強いんですよね。長く続いてきたものは、続いてきた意味があると思います。課題はたくさんあると思いますが、今後もいい発展をしていってほしいと思っている一人です。

★おお、陸上部のマネージャーをされていたんですね。顧問が日本記録保持者ですか。気になったので調べてみましたが、石井隆士はすごい選手ですね。 せっかくなので書かせて頂くと、日本記録を樹立したのは1977/9/3にドイツ・デュッセルドルフで行われた W杯に参加した時(当時日体大教員)で、その時の記録が3:38:24。この記録が27年間破られなかったんですね。破ったのは実業団NTNに所属する小林史和。2004 /7/31にベルギーで行われた記録会で3:37:42を記録。これが現在の日本最高記録となっています。 記録が破られた時に石井先生は「やっと破ってくれたか」と笑い、「駅伝、マラソン志向が強過ぎ、中距離に留まっていれば成功できる素材までが長距離に流れてしまっている」「スピードがないから長距離に、ではなくスピードをつけて長い距離に移行する発想に切り替えないと、マラソンでも勝負できなくなる」と語っています。私が書いている事を裏付けるような内容ですね。石井先生は箱根で1区の区間新を出した事もあるので、それだけに重みがある発言です。 chiakiichiさんのお父さんは、随分箱根がお好きなんですね。ご自身も応援に出られた事があるんですか。沿道にいる人は、往復で100万人と言われています。それだけ熱心なファンがいるだけに、うまく発展していけるといいですね。 最後に、この記事に初めてコメントをくださって嬉しかったです。調べるのに時間をかけていますし、個人的には「働かない男」よりずっと面白い内容だと思うんですけどね…。

chiakiichi - 2006/01/21 9:00
おはようございます。石井先生について、調べてくださったんですね!私の調べ方は甘かったですね~、さすがガチャピンさん(^○^) 最近、記録がやっと破られたんですか!それにしても先生らしいコメントです(^^♪ 最初は石井先生がそんなにすごい選手だったなんて知らなくて、知ったときには驚いたものです。とても気さくな方でしたし、怒ると怖いという人もいましたが、私には優しい先生だったなぁという記憶しか残ってませんです。 この記事にお時間がかかっているのはよく分かりましたよ。やはり陸上には興味があるのでじっくり読ませていただきました。

★おはようございます。石井先生について、調べてくださったんですね!私の調べ方は甘かったですね~、さすがガチャピンさん(^○^) 最近、記録がやっと破られたんですか!それにしても先生らしいコメントです(^^♪ 最初は石井先生がそんなにすごい選手だったなんて知らなくて、知ったときには驚いたものです。とても気さくな方でしたし、怒ると怖いという人もいましたが、私には優しい先生だったなぁという記憶しか残ってませんです。 この記事にお時間がかかっているのはよく分かりましたよ。やはり陸上には興味があるのでじっくり読ませていただきました。
スポンサーサイト
この記事に対してトラックバックを送信する(FC2ブログユーザー)
 ※言及リンクを持つ記事からのみ、受け付けています。
http://gachapin99.blog48.fc2.com/tb.php/33-6f238fe3

0件のトラックバック

0件のコメント

コメントの投稿

投稿フォーム
投稿した内容は管理者にだけ閲覧出来ます

Appendix

Twitter

       過去のログはこちら

各種プルダウンリスト

ベストセレクション

■【書評】
書評格付け400
■【映画】
映画格付け300

文字の拡大・縮小

プロフィール

ガチャピン

作っている人:ガチャピン

東京のIT系企業に勤める男。1977年生まれ。趣味は読書、スポーツ観戦、トレーニング、ブログ、映画鑑賞。

全タイトルを表示

TopHatenar Map

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

クリック募金

管理人へのメール

名前:
メール:
件名:
本文:

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。