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追悼 仰木彬

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仰木彬おおぎ・あきら
1935(昭和10)年4月29日生まれ。
福岡県出身。


54年に東筑高から投手として西鉄ライオンズ(現:西武ライオンズ)に入団。大物ルーキーとして期待されたが、入団直後にフリーバッティングでの投球を見た三原脩(おさむ)監督にコンバートを勧められ、二塁手に転向。すぐにレギュラーとなり、プロ生活14年を西鉄一筋で過ごす。生涯成績は打率:.229 本塁打:70 打点:326 安打:800 盗塁:116。取り立てて優れた数字を残したわけではない。表彰 されたのもベストナインを1回だけ(60年)。しかし稲尾和久中西太らと共に西鉄黄金期を支えた選手の1人であり、三原と交わした野球議論が後の監督業につながったとされる。
67年に現役を引退し、2年間西鉄のコーチを務める。70年に当時三原が監督を務めていた近鉄バファローズに移籍。18年間コーチとして働き、88年53歳の時に監督に就任。早くから監督候補と目されていたが、就任が遅くなったのは遊び癖があった為と言われる。現役の頃から酒と女には目がなく、豪快で知られる西鉄の中でも1、2位を争う遊び人であった。本人がそういう調子である為、監督としても「選手がグラウンド外で何をしようが、試合で結果を出せば何も言わない」タイプだった。前日遅くまで飲んだ時は、翌日の試合で周りから表情が見えないように、濃いサングラスをつけてベンチに座るのが常だった。

監督就任1年目には前年最下位だったチームを率い、西武と激しく優勝を争った。結果は最終日の近鉄対ロッテ・オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)のダブルヘッダーにまで持ち越されたが、2厘差で惜しくも2位。俗に10.19といわれるこの2試合は、今も野球ファンの語り草となっている(詳しくはこちら)。翌89年にはオリックス・西武との三つ巴を制し、2位オリックスにわずか1厘差でリーグ優勝を達成。日本シリーズで読売ジャイアンツと対戦するが、3連勝後に4連敗。球団史上初の日本一にはなれなかった{負けるきっかけとなったのは加藤哲郎投手が「巨人はロッテより弱い」といった為…と信じられているが、実際のところ加藤はそういった発言をしておらず「ヒーローインタビューの内容をマスコミが曲解した」というのが真実である}。同年のドラフト会議では、史上最多8球団の指名を受けた野茂英雄(投手・新日鉄堺)を抽選くじで引き当てた。

92年に近鉄の監督を退き、1年間ABC(朝日放送)で解説者として過ごした後、オリックス・ブルーウェーブの監督に就任。その人事で大きく運命が変わった選手は何人もいるが、ここでは3人を挙げよう。1人は鈴木一朗。91年に愛工大名電からドラフト4位で入団した鈴木は、「桁違いの素材」と誰もが見ていた。1年目には野茂からプロ初本塁打を記録。しかし、監督の土井正三とヘッドコーチの山内和広は独特の打ち方を認めず、変えるように指導。しかし鈴木がそれを断った為に、2軍暮らしを余儀なくされていた。鈴木の才能を評価した仰木は1軍に引き上げ、新井宏昌打撃コーチに育成を任せた。またこの時新井の進言により登録名をイチローへと変更(一般的に仰木が名付け親とされているが、実際はそうではない)。そしてイチローはその年に前人未到のシーズン210安打を達成。その後の活躍は周知の通り。
2人目は佐藤和弘。亜細亜大学野球部主将としてプレー(当時のエースは阿波野秀幸)した後、社会人野球の熊谷組を経て90年にドラフト1位で入団。初年度に打率.331を記録したものの、その後振るわず。そして94年に登録名をあだ名のパンチにする事を仰木が提案。イチローと共に改名コンビとして話題になる。しかしそれでも成績が悪かったので、シーズン終了後に仰木から引退(とタレント転向)を勧められ、その助言に従った。芸能界で生活の糧を得られるようになったパンチ佐藤にとって、仰木は忘れえぬ恩人である。
3人目は田口壮。関西学院大学でプレーし、大学No.1ショートとして91年にドラフト1位で入団。だが監督の土井は「スローイングに問題がある」と見て厳しく指導。しかし精神的に追い込まれた田口のプレーは悪くなる一方であり、とうとうイップスになってしまった。内野失格の烙印を押されてしまった田口だが、仰木の監督就任後は強肩を生かす為に外野にコンバート。それが成功し、藤井やイチローと共に「プロ野球史上最強の外野陣」と呼ばれるまでになった。この3人以外にも前述の野茂や、長谷川滋利、吉井理人など後にMLBでプレーする多くの選手が仰木を師と仰いでいる。もっとも投手起用に関して強引な面も見られ、酷使したり投手のプライドを傷つける事も厭わない。平井正史、鈴木平といった投手が一時期活躍した後怪我に悩まされたり、権藤博や山田久志といった投手コーチと揉める事もしばしばであった。

データを重視しつつ随時オーダーを変えるやり方は仰木マジックと評されたが、彼がそうしたのは94年からパ・リーグの全公式試合で予告先発が始まった事も大きい。豪快に見えるようで、緻密な采配を執る人物であった。そしてオリックスで、監督人生における絶頂期が訪れる。
95年、阪神大震災で大きな被害を受けた神戸。しかし幸い本拠地であるグリーンスタジアム神戸(現スカイマークスタジアム)は無事だった為に、例年通りペナントレースに参加。腕にがんばろうKOBEのワッペンをつけた選手達の活躍により、2位の千葉ロッテに12ゲーム差をつけてリーグ優勝を果たす(日本シリーズではヤクルトに敗れた)。翌年も優勝したオリックスは日本シリーズで読売ジャイアンツを倒し、日本一となる。この時期スタジアムには多くの観客が訪れたが、一説には「がんばろうKOBE」に共感した阪神ファンが多かったという。
キャンプ中では、報道陣と酒を回し飲みするのが仰木恒例の行事だった。休日には「ネタがないだろう、なにがいいか」と、自ら話題提供を買って出た。常にファンの注目、マスコミへのアピールを頭に置き、「プロは見られてなんぼや」と口にしていた。その後オリックスは99年までAクラスをキープ。しかし戦力は衰え、観客数は減り、優勝争いできるチームではなくなっていった。仰木は01年に監督を退任。
仰木彬とイチロー94年には肺がんの手術を受けていた。03年にがんが再発し、2度目の手術を受けたが、抗がん剤による治療が成功。そして04年末には、功績が評価されて野球殿堂入りする。祝賀パーティーについて仰木が注文したのは、「俺と関わった人間は全て集めろ。これは俺の生前葬だ」というものだった。そして式場には数多くの人々が集まった。イチローもアメリカからこのパーティーの為だけに帰国。また、近鉄・中日などでプレーした金村義明とは公私共に親しい事で知られる。

そして05年。前年に国中の論議を呼んだ近鉄バファローズとオリックス・ブルーウェーブの合併によって誕生したオリックス・バファローズ。仰木はその初代監督に要請される。健康面から危惧する声もあったが、「これで野球に恩返しができるなら」と受諾。こうして70歳の日本プロ野球史上最年長監督が誕生した。しかし監督という激務は大きな負担となり、病魔は再び進行。夏前にはチームの指揮は実質的にヘッドコーチの新井宏昌が執るようになり、仰木は新井の提案にただ頷く事が増えた。最終戦となった9/28の西武戦(インボイス西武)では、階段を上ることができないほど体が衰弱。同日会談した清原和博(元読売ジャイアンツ)から「次にお会いする時もこの前の場所で食事をしましょう」と言われたが、食事がノドを通らない状態だった為に「あそこの食事は食べきれないので場所を変えよう」と返事をしていたという。翌日に神戸市内で宮内義彦オーナーに辞任を申し入れた。「ユニホームを着続けることは体調的にもご迷惑をかける」と中村勝広監督にバトンを渡し、球団のシニアアドバイザーへ。監督通算成績は1856試合で歴代12位の988勝、勝率は.548。そしてユニホームを脱ぐと同時に、福岡市内の病院に極秘入院。それでも10/7の中村監督の就任会見には病床から駆けつけた。見舞いに訪れる選手達に笑顔を見せた日もあった。「早く春になればいい。キャンプもまた行きたいしな」と語っていたという。

だが「退任のときに選手に挨拶がちゃんとできなかったから」と出席を予定していた11月末の球団納会を急きょキャンセル。この頃から容体が悪化したようだ。仰木はイチローとの再会を楽しみにしていて、主治医に「12/20に食事の約束をしているので、それまでは何とか生かせてほしい」と懇願していたという。だが12/15 16時10分、長かった病気との闘いにピリオドが打たれた。野武士集団といわれた西鉄ライオンズから受け継がれた野球を、平成の世に花開かせた仰木彬。享年70歳。今はただ、その冥福を祈るのみ。
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■コメント
ナメラ商店街 - 2005/12/21 2:13
オリックスファンだった時、土井監督から仰木監督に変わってからチームの雰囲気がとても明るくなり、見ていて楽しい野球になったなぁ…と感じてました。 現役当時の仰木さんは知らないけれど監督になってからの姿はずっと見ていましたし、何よりパ・リーグで、そして関西で活躍でされていたので仰木さんがいなくなってしまったことは本当に残念です。 仰木さんの遺志を継いで、清原がオリックスに入団ですね。とやかく言われることは多いでしょうが地元の関西でのびのびプレイしてほしいと思います。

★仰木さんが現役だったのは38年前ですから、さすがに私も知りません。コーチになってからは近鉄、オリックスとずっと関西、パ・リーグで活動をされてましたね。あと記録を見る限り、土井正三氏はかなり嫌われていたようですね。いい話を聞きません。 清原については、入団の意思を固めるのが遅かった事が気になっています。当人にも色々と事情はあるんでしょうけど…。「仰木さんの遺志を継いで」云々という話は、来季彼が良いプレーをして初めて美談といえる気がします。
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