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[C1163] 資料としてlinkさせてください

島原の乱資料集めをして中でヒットしました。このページを個人のPCのBOOKMARKにさせていただきます。後、小説の参考資料としても使わせていただきます。
  • 2011-05-20
  • 明香里
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[C1164] 明香里 さん

コメントありがとうございます。そういう風に使っていただけると
ありがたいです。自分で記事を読み返し、書いた時のことを思い出し
ました。
  • 2011-05-20
  • ガチャピン
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[C1167] 初めまして

 歴史には全く疎いのですが、落人、とはどのくらいの人数発生したのでしょうか。
 先日老い先短い母から家系図をもらい、島原の乱の落人のうち3人で佐世保のあたりを分割し、その中の一人が先祖として書かれていたもので、それはなんだ??と寝耳に水な状態です。
 落人はなんとなくネガティブなニュアンスを感じるので、あえて隠していたのかなあと思ったりもしています。
  • 2011-06-25
  • にょろり
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[C1168] にょろり さん

うーむ、落ち武者の数ですか。私も詳しいわけではないですが、
島原の乱に参加した人数を考えると、少なからず発生した
と考えてよろしいかと。脱走兵はいつの時代もいますし、
兵士のモチベーションが上がるような戦ではなかったです
からね。

落ち武者が農民から狙われたり追っ手が差し向けられたり
するのはよくある話なので、色々と苦労をしたのではない
かと思います。
  • 2011-06-25
  • ガチャピン
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[C1169] 返信ありがとうございます

>農民から~~

なるほどです。ありがとうございました。
  • 2011-06-26
  • にょろり
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【いっき】と島原の乱

あなたは人目のお客様です。

20年前、『いっき』というファミコンソフトがあった。
パッケージ              ゲーム画面
サンソフト いっき

発売日は1985年11月28日。メーカーはサンソフト。価格は4900円(当時消費税はなかった)。文字通り、一揆をテーマにした最初にして恐らく最後のゲーム。大して売れたソフトではないのだが、現在まで語り継がれる一作となっている。その理由は、おかしな設定。

過酷な年貢に対し耐えかねた農民の権べ(1P)と田吾(2P)。代官に対し、2人だけで一揆を起こす事を決意。戦う相手は主に忍者。投げられる手裏剣に対し、鎌を投げて対抗。ステージには竹槍も置いてあるが、取ると正面の敵しか攻撃ができず動きも遅くなってしまうパワーダウンアイテム。他に登場するのは腰元や幽霊、鉄砲侍。ステージは全4面。クリアの条件は小判を8枚集める事。詳しい説明はこちら
なぜ武器が鎌で、戦う相手は忍者なのか。そもそも目的が小判集めというのは強盗ではないだろうか…などツッコミどころ満載である。このゲームを久しぶりにやってみた。攻略ページも参考にしていたら、20分弱でクリア。2週目以降はやらなかった。これで4900円は高い。

ところで、実際に行われた一揆とはどんなものだったか。調べてみたところ、時代によって内容はかなり違う。概論で書くのが難しい為、今回はその中でも有名な島原の乱(島原・天草一揆)について調べてみた。

◆ 島原の乱とは
1637(寛永14)年10月25日~1638(寛永15)年2月28日に起きた、江戸時代における最大の農民一揆。それが島原の乱である。舞台となったのは、松倉勝家が領する島原藩4万3千石のある肥前島原半島(現:長崎県)と、寺沢堅高が領する唐津藩12万石の飛地である肥後天草諸島(熊本県)。3代将軍家光の時代の話である。

 ○ 時代背景と発端
島原藩は、キリシタン大名として知られる有馬氏の領土だった。そもそも有馬氏がキリシタンになった理由は、その教えに感銘を受けたからではない。西洋人を通じてもたらされる高い技術(鉄砲など)に魅力を感じたからである。しかし大名自らキリスト教徒になった事で、領民に教えが広く普及する。特に苦しい生活を強いられた農民にとって、来世で約束された幸福は魅力的に映った。しかし豊臣秀吉、徳川家康と時代の支配者達は禁教令を出してキリスト教を取り締まった。その理由は大きく3つ。
・キリスト教が武家社会に馴染まないと感じた
 例えばカトリックでは自殺が禁じられている為、切腹ではなくより不名誉な斬首を
 選ぶ大名がいた。
・鉄砲や大砲などを取り入れ、大名が軍事力を強化する事を気にした
・一向宗のように、宗教が人を結びつける力を恐れた

1614年、有馬氏が転封で島原を去る。代わって大和(奈良県)より松倉重政が治める事になった。彼は一国一城の制に従い、それまであった原城と日野江城を廃して島原城(森岳城とも)の建築を始める(位置はこちら)。しかしその城が分不相応に壮大であった為、相当な建設費がかかった。また江戸城の修築など、公儀普請を積極的に行った。それらの資金は領民の負担である。検地で実勢の倍近くの石高を見積もり、厳しく年貢を取り立てた。キリスト教徒に対しては当初穏やかなものだったが、1625年に将軍家光より「対策が甘い」と指摘され、過酷な弾圧へと変わる。年貢不払い及びキリシタンに対しては拷問が加えられた。その種類には様々なものがあるが、悪名高いものが2つある。

1つ目は「温泉地獄責め」。領内にあった雲仙岳で、硫黄の匂いがたちこめるボコボコ沸いた温泉に突き落とす方法である。気絶したら引き上げて水をかけて起こし、更に突き落とす。多くの人間は火傷で死亡した。中には火口に落とす場合もあったという。もう1つは「蓑踊り」。雨具である蓑(みの)を着せて手足を縛り、火をつける。熱さに苦しみもがく姿が踊っているように見えるところから名付けられた。これらに関しては、拷問というよりは処刑といった方がいい。

この弾圧により、最盛期には7万人いると言われたキリシタンは表面的にはいなくなった。ただ重政は「それだけでは足りない。キリシンタンの根拠地を叩かねば」と考え、ルソン島(フィリピン)への攻撃も独自に計画。この戦費も、当然領民の負担である。しかし1630年、その遠征の実施寸前に急死。死因は狂死とも暗殺とも言われる。彼の後を継いだのが嫡子の勝家。そのやり方は父親と同じであり、領民の暮らしは楽にならなかった。
一方の天草は、有馬氏と同じくキリシタン大名だった小西行長が治める土地だった。しかし関ヶ原の戦い以降は寺沢広高が入部。キリシタンに対しては島原同様、厳しかった。それは息子の堅高の代になっても受け継がれた。 決定打となったのは、1634~1637年に起きた全国的な飢饉である。餓死者が続出する事態ながら、年貢は例年通り。そして1637年10月25日、追いつめられた領民は南有馬村で代官を殺害する。その動きが他の地域へと伝わり、多くの農民が立ち上がった。これが島原の乱のはじまりである。

◆ 経過
一揆軍は島原城に押し寄せるが、攻略する事はできず(城主の松倉勝家は江戸にいて不在)。天草でも農民が蜂起して唐津藩兵を破るが、根拠地である富岡城は占拠できなかった。この時の天草側のリーダーが天草四郎である。

        天草四郎像
天草四郎像天草四郎は1621(元和4)年生まれで、この時16歳。身長155cm。本名は益田四郎。父は小西行長の遺臣益田甚兵衛。この時は帰農していた為に名字を使えず、従って息子も単に「四郎」と呼ばれていたようだ(四男だったわけではない)。9歳から習い事をしたというから、農民としては比較的裕福な環境に育ったといえる。非常に利発で、キリスト教への信仰心が厚かった。彼は「習わずして書物を読み、諸経を講釈し、人々にはやがてキリシタンの世になると説いた」と伝えられる。また様々な奇跡を行う事ができたらしい。例えば「手を差し伸べると空から鳩が降りてきて、掌に卵を産んだ。その卵を割ると、中からキリシタンの経文が現れた」という具合である。「天草に四郎という神童がいる」、という話はこの地方に知れ渡っており、彼が一揆に参加した事は農民を奮い立たせた。やがて一揆軍の総大将となるが、実質的には父をはじめ旧小西・有馬の浪人達が仕切っていたと思われる(軍師の蘆塚忠右衛門もその1人)。天草四郎時貞とも言われるが、この「時貞」は一揆参加後に名前に箔をつけるため、加えられたらしい。また四郎が美少年、という説には賛否両論がある。幕府側の人間は肯定し、近親者は否定している。ただ悲劇の主人公としては、美少年と考える方が似つかわしい。

○ 幕府、動く
攻撃を受ける側だった島原藩の家老は、近隣の細川藩(佐賀県)や鍋島藩(熊本県)に応援を要請。だが武家諸法度により、幕府の許可なく軍勢を動かす事は禁じられていた。幕府がこの一揆について知ったのは発生から2週間後の11月9日。閣議の結果松倉勝家に帰藩を命じ、同時に幕府の意向を伝える上使として板倉重冒を派遣した。次いで11/27に松平信綱が江戸を出発。ただこの時幕府側に危機意識は薄く、信綱は戦後処理をするつもりでゆっくり向かった。

一方勢力を拡大できずにいた一揆軍は、廃城となっていた原城を修復して籠城することにした。(原城の場所はこちら)。戦略的な目的としては、全国の浪人とキリシタンによる蜂起や、カトリック国ポルトガルからの援軍を期待しての事である。近隣から物資を集め、付近の住民のほとんどが原城に移った。その数は戦闘員2万3千人、非戦闘員1万4千人の計3万7千人。

12月9日に島原に到着した板倉重冒は、松倉・寺沢の他に細川・鍋島藩の軍勢で原城を包囲。その数3万4千人。同月19日に総攻撃を行った。だが板倉が1万5千石しかない小大名だった事と一揆軍を舐めていた為、軍の統制が取れない。結果は失敗に終わる。翌年の元旦にも攻撃を行うが、これも不成功。この時の戦闘で板倉は死亡した。2回の戦闘で幕府側の死者は4千人以上、一揆軍は100名ほど。

○ 知恵伊豆の登場
松平信綱が島原に着いたのは1月4日。彼は家光の腹心で、「知恵伊豆」と言われた切れ者。今度は軍勢も命令に従った。板倉戦死の報は江戸にもたらされ、驚いた幕府は西国の諸藩に援軍を命令。総勢12万5千人にまで膨れあがる。松平の方針は「兵糧攻め」。原城を取り囲み、持久戦に持ち込んだのである。しかしただ待つわけではなく、弱体化させる為に工作も行った。
 ・金堀工夫に命じて、城の外から内部につながる穴を掘らせる 結果→×
  作業に気づいた城内の人間が水を流したり、煙を焚いたり、糞尿を流し込んで防いだ。
 ・オランダ船に頼んで、城を砲撃してもらった 結果→×
  搭載していた大砲が対陸用ではなかったので、ほとんど効果をあげられなかった。
 ・甲賀忍者を城内へ潜らせる 結果→△
  食料を盗み出す事には成功したが、内部の情報はキリシタン用語と方言があまり
  理解できなかった。

いずれも効果的とは言い難かったが、一揆軍を休ませなかった。最もダメージを与えたのは、陸上からの砲撃である。四郎の側近数人が死亡、本人も負傷した。これが1月21日の話である。軍に動揺が広がり、落人も出た。幕府軍と一揆軍の間では頻繁に矢文が交換され、降伏勧告が数回された。だが一揆軍はこれに応じず、軍としても大きく崩れる事はなかった。キリスト教を中心に、結束力が強かったのである。天草四郎のカリスマ性も大したものだ。

○ 決着
2月22日、食料に窮乏した一揆軍が夜襲を計画。しかし相手側の強固な守りの為に断念した。一方の幕府側は総攻撃を決定し、2月27日と28日に行われた。この段階で、一揆軍に守りきる力は残されていなかった。「キリシタンは虫も生かしておけぬ」という下知がされていた為に、城内に残っていた人間は全て殺された。中には京都から戦を見物にきた観光客も含まれていたようだ。この時の戦闘で幕府側の死者は千人。天草四郎は、この戦闘の最中に殺害された。だが、正確な事はわかっていない。というのも、戦後彼の母親(一揆には加わらず、別の場所で捕らえられていた)に首実検をさせたところ、1人の少年の顔を見た時に嗚咽した。それが四郎だと幕府軍は解釈した……というわけなので、必ずしも本人だったとは言い切れない。ただ山狩りなど徹底的に行われた為、彼が生き残った可能性は極めて低い。四郎を含め、1万人がさらし首となった。
宮崎昌二郎 『落城』
宮崎昌二郎 『落城』

島原の乱における幕府の行動には、2つの謎がある。「なぜ一揆軍を皆殺しにする必要があったのか」と「なぜ幕府は12万5千人も軍を集めたか」。前者については「他のキリシタンへの見せしめ」と言えるが、それでは後者が説明できない。実は両方の答えになる伝説がある。それは、「天草四郎が豊臣秀頼の息子」というもの。大阪夏の陣を逃れた秀頼は九州に身を隠し、そして四郎が生まれた。家光はその事を知り、家康の孫として秀吉の孫である四郎を絶対に倒さなくてはいけなかった…という話。確たる証拠はないのだが、そう考えてみるのも歴史のロマンと言えるだろう。

この戦闘で生き残った一揆軍の人間が、1人だけいる。山田右衛門である。彼曰く、「自分は一揆に参加したくなかったが、母と妻が行くというので仕方なく加わった」。幕府側と矢文を交換する役目にあった彼は降伏を申し出、手引きして四郎を捕獲しようとした。だがその矢文が一揆軍に見つかる。家族は殺され、彼も処刑される事になった。総攻撃が仕掛けられたのは、まさにその直前だった。この時幕府軍に斬られそうになった彼は、やり取りした書状を見せて助かったという。こうして彼は「裏切り者」として後世まで語られる事となった。だが、彼が生存した為にわかった情報も多い。山田の本来の職業は絵師で、一揆軍の陣中旗を描いたのは彼だった。この旗はバチカンによって「十字軍旗」「ジャンヌ・ダルクの旗」と共に世界三大聖旗として扱われている。ただ、四郎をはじめ一揆軍は殉教者としては認定されていない。
一揆軍陣中旗
一揆軍陣中旗

○ 戦後処理
島原藩主の松倉勝家は、美作(岡山県)に流された上で斬首。これは大名への処分としては、非常に厳しいものだった。天草を治めていた唐津藩主の寺沢堅高は天草領4万2千石を没収。堅高自身は9年後に発狂自殺し、家は断絶。幕府軍側で軍律に従わなかった大名にも、処分が下された。
○ 結局原因は何だったのか?
一揆が起きた後、松倉は幕府に「キリシタンの反乱」と報告し、幕府は「松倉の失政」が原因と判断した。どちらかといえば、幕府の見解が正しい。確かに松倉による過酷な税や年貢がなかったら、農民は立ち上がらなかったろう。もっとも、当時幕府は参勤交代などで各藩にかなりの負担をさせていた。それが領民の生活を苦しくしていたのも事実である。幕府に責任がない、とは言えない。キリシタンの弾圧に強い反発もあったろうが、税や年貢に比べれば重要度は低い。人は神の教えがなくても生きていけるが、食物がなければ飢えて死ぬだけである。結果的に一揆軍を結びつけたのはキリスト教だったが、それは原因とは言いにくい。やはり本質的には農民一揆、と解釈すべきだろう。

この後幕府はポルトガル人を追放し、オランダ人とのみ貿易を行うようになった。ポルトガルのように宗教を持ち込まなかったからである。こうして日本は鎖国への道を進んでいった。

◆ その後の天草
乱から3年後、天草は天領となる。しかしそこにあったのは、少ない人口と荒れ果てた田畑。一揆のダメージから全く抜け出せていなかった。そこに代官として赴任してきたのが、鈴木重成である。彼は地域の立て直しに、精力的に取り組む。まず着手したのが移民の誘致で、優遇策を取って人を集めた。他には行政の仕組みを見直したり、島原の乱の犠牲者の供養をしたり。キリシタンは取り締まったものの、拷問ではなく説得で改宗するよう働きかけた。こうして土地は少しずつ良くなっていった。だが、どうにもならない問題もあった。

それは年貢の重さである。課せられたのは4万2千石。ところが、実際に調べてみるとせいぜい2万石。このままでは民は救われない…そう考えた重成は幕府に大幅な石高削減を陳情した。しかし、天草を認めると他の地域も許可しなくてはならない為、取り合ってもらえない。自ら江戸に向かい、老中に訴えた。だが、こちらでも相手にされなかった。松平信綱も、聞く耳を持たなかったのである。最終手段として重成が選んだのは切腹。傍らには将軍への上奏文があった。文字通り、死を賭しての願いだった。1653(承応2)年、秋の事である。
驚いた幕府は穏便に済ます為に重成を病死扱いにし、息子にも家督を継がせた。鈴木家は島原で人望を得ていた為、次の代官には重成の甥である重辰が命じられた。この重辰も石高削減を訴えた為、1659(万治2)年6月、幕府は石高を2万1千石にする事を決定。その後天草は豊かな村として発展していったのである。島原の乱に参加した人達の無念も、少しは晴れたかもしれない。なお鈴木家もやがてこの地を去るのだが、領民達は感謝を表すために鈴木神社を作った。350年近く経った今でも、その社は健在である。

天草灘の夕焼けは絶景として知られ、現在も多くの人間に愛されている。かつてこの地で暮らし戦った人々は、どういう気持ちで沈みゆく夕日を眺めていたのだろうか…。
天草灘の夕焼け

追伸:このブログのトータルアクセスが2万を超えました。ありがとうございます。 ガチャピン拝
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■コメント
探偵
- 2005/07/16 22:22
こんばんは。 20,000ヒットおめでとうございますっ♪ いっきかぁ~懐かしいですねぇサンソフトって歴史もののゲームが多かった記憶がありますが、「東海道五十三次」が好きでした。でも、ゲームって苦手だったんで、クリアーなんかできないんですけどっ・・・(汗)・・・今やったらどうなるんだろ!? それにしてもゲームの話から、随分ヘビーな内容に移行しましたねぇ~

★この記事についてはコメント(0)を覚悟していましたので、書き込んで下さった事にお礼を申し上げます(笑) おっしゃる通り、サンソフトは歴史物のゲームを販売してましたね。『水戸黄門』シリーズもそうです。…アクションゲームについては、昔より確実に腕は落ちていると思いますよ。皆そう言いますから。 内容の移行については妙に感じられるかもしれませんが、自分の中では結びつきがあるもので。 1つの記事にまとめたかったんです。

ナメラ商店街 - 2005/07/17 1:25
20000hit、おめでとうございます☆ 平仮名で「いっき」というのが何ともシュールですね。しかもゲームなのに、テーマが一揆ってどうよ!? ファミコン時代のアイデアは今では考えられないものばかりですね(^-^;A 江戸期のキリシタンに対する拷問は非常にえげつない内容で、同じ日本人に対する仕打ちとは思えませんね…。火口に突き落とすって…メチャクチャな(;´_`;) サンソフトのファミコンソフトは「アトランチスの謎」を持っています。割と有名なソフトではないでしょうか?攻略本がないと絶対クリアできないゲームです(笑)

★コメントくださり、ありがとうございます。『いっき』は当時やった人間には懐かしいソフトで、多くの人に強い印象を残しています。確かに、今だと考えにくいソフトですよね。 『アトランチスの謎』の知名度は、更に上ですね。おっしゃる通り、攻略本なしのクリアはまず無理です…。 拷問の方法は、地域や時代によって様々な種類が見られます。それらを調べていると「人間というのはどこまでも残酷になれるものだな」という印象を受けますよ。
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  • 2011-05-20
  • 明香里
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[C1164] 明香里 さん

コメントありがとうございます。そういう風に使っていただけると
ありがたいです。自分で記事を読み返し、書いた時のことを思い出し
ました。
  • 2011-05-20
  • ガチャピン
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[C1167] 初めまして

 歴史には全く疎いのですが、落人、とはどのくらいの人数発生したのでしょうか。
 先日老い先短い母から家系図をもらい、島原の乱の落人のうち3人で佐世保のあたりを分割し、その中の一人が先祖として書かれていたもので、それはなんだ??と寝耳に水な状態です。
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  • 2011-06-25
  • にょろり
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[C1168] にょろり さん

うーむ、落ち武者の数ですか。私も詳しいわけではないですが、
島原の乱に参加した人数を考えると、少なからず発生した
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  • 2011-06-25
  • ガチャピン
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[C1169] 返信ありがとうございます

>農民から~~

なるほどです。ありがとうございました。
  • 2011-06-26
  • にょろり
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